長岡 慶

長岡 慶(南アジア・インド洋世界論講座) 「ヒマーラヤ山脈の聖地で歌う」

    10月のある日、北東インド・ヒマーラヤの山岳地域タワンにいた私は、M村の友人たちとグル・パドマサンバヴァの聖地へ巡礼に出かけました。グル・パドマサンバヴァは、チベットやヒマーラヤ社会に密教を伝えた8世紀の密教行者で、タワンの人々に広く崇拝されています。私たちは早朝4時に村を出発し、日が昇る頃山の麓にある寺院を参拝しました。そこからそそり立つT山は三角形に鋭く尖った岩山で、グル・パドマサンバヴァが頂上で瞑想した際に神通力で山を天然の寺院にしたと信じられています。

    伝統衣装で着飾った友人たちと5時間ほど山を登り、頂上近くで皆がビャクシンの木の枝を集め始めました。ビャクシンは仏教儀礼で身体や空間を浄めるためによく使われる香木です。友人のペマは「頂上から108つの湖を見るためにはこの枝を持っていないといけないのよ」と言いました。言い伝えによると心のきれいな人間であれば聖地から周辺の山々に108つの湖が見えるというのです。

    やっと頂上に到着し、私たちはグル・パドマサンバヴァが瞑想したという岩に祈りを捧げて五体投地をしました。参拝が終わると皆が微かな点でしか見えない遥か彼方の湖を数えることに没頭し、「何個見つけた?」と互いに聞きあいました。いくら数えても108つに及ばないとわかると、ロブサンが「まだまだ私たちは心がきれいでないのね」と苦笑しました。

    湖を数えるのに疲れてきた頃村のおばさんが、せっせと担いできた手造りの玉子酒をふるまいながら呼びかけました。「さぁ歌おう!山の神様に歌を聞かせてあげないと怒ってしまうよ」。標高4200メートルの山の上で宴会が始まりました。ゴーゴーと吹きつける強い風にのせて、日本やタワンの歌が響き渡りました。吉祥を願う無数の五色旗がはためいて私たちを祝福してくれているかのようです。タワンの人々にとって聖地巡礼とは体いっぱいで感じる生きる喜びなのだ、そのように感じた瞬間でした。
    【「アジア・アフリカ地域研究情報マガジン」第159号(2016年9月)「フィールド便り」より引用】
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