IAS-INDAS連携事業「南アジア世界におけるシーア派イスラームの展開」


【日時】2014年11月16日(日)13:00~17:00
【場所】早稲田大学26号館502号室

【プログラム】
司会 子島進(東洋大学)

13:00-13:05 趣旨説明
外川昌彦(広島大学)

13:05-13:50「バングラデシュのシーア派-イランとの関係を中心に」
桜井啓子(早稲田大学)

13:50-14:35「インド・ムンバイ市におけるシーア派-新秩序形成とイラン国家-」
黒田賢治(日本学術振興会)

14:45-15:30「交差する空間-インドの思想文化史におけるシーア派イスラーム」
榊和良(北海道武蔵女子短期大学)

15:30-16:15「スーフィーとシーア派 南アジアにおける関係の概観」
二宮文子(青山学院大学)

16:15-17:00 総合討論

 晩秋の候、INDAS-IAS連携事業「南アジア世界におけるシーア派イスラームの展開」と題うった研究会が開催された。当日は南アジアのみならず、イランや中央アジア地域を対象とする研究者や、新聞社の記者も参加するなどの盛況であった。
 はじめに、外川昌彦氏がNIHUプログラム・地域研究間連携研究の推進事業「南アジアとイスラーム」の概要と本研究会の趣旨を説明した。本研究会では南アジアにおけるシーア派の様相について、イラン研究者による南アジアの調査報告と、南アジア思想史研究者によるシーア派イスラームへの問題提起を共に取り上げることで、イスラームと南アジア世界における相互の視点を検証する。それを通じて南アジアにおけるイスラームの多様性と統一性を浮かび上がらせることを企図するとのことであった。以下の趣旨説明のもと、4件の報告が行われた。前半2件が現代イラン研究者による南アジアのシーア派の調査報告、後半2件が南アジア史・思想史研究者による南アジアのシーア派の分析である。
 最初の報告者である桜井啓子氏は、ベンガル/バングラデシュへの12イマーム・シーア派の流入と、彼らの現在の様相を取り上げた。ベンガルへの12イマーム・シーア派の流入は、ムガル朝期に宮廷のペルシア系エリートが同地に派遣されたことに端を発する。特にシャー・ジャハーン時代(1628-1658)に派遣されたベンガル太守シュジャーの影響が強く、今日のバングラデシュのシーア派には、彼の子孫とされる人々が多いという。その他にもインド・パキスタン分離独立前後にインドから移住した人々もいる。
 このような歴史的背景を踏まえた上で、桜井氏はダッカを中心としたバングラデシュ国内のシーア派社会の現状を概説した。現在のバングラデシュのシーア派は、多くがウルドゥー語やウルドゥー語とベンガル語の混淆言語であるダカイヤを話すが、ベンガル語使用が卓越する公共空間ではそれを隠す傾向がある。ダッカのシーア派宗教施設はムガル朝・英領期か東パキスタン時代に建造されたもので、バングラデシュ独立後に建造されたものは今のところ認められない。ムハッラムなどの修行行事には、シーア派とともにスンナ派やヒンドゥー教徒も参加しており、参加者の総数の中でシーア派はむしろ少数であるという。ダッカのシーア派宗教指導者はみなナジャフやコムへの留学経験があるものの、ムジュタヒドになった者はいない。イランはバングラデシュのシーア派社会に対して財政的支援・教育支援を行っているが、バングラデシュ政府との提携の関係上、表向きセクタリアン活動は行っていない。
 黒田氏の報告は、インド最大の都市であるムンバイのシーア派教育に焦点をあてたものであった。はじめに前提として19世紀初頭からの歴史的イランにおける宗教教育と人の移動、イラン共和国における1980年代以降の宗教教育の変容が説明され、教育の中心が人から場に移っていったことが確認された。ムンバイのシーア派人口は40万人弱程度と推定されるが、シーア派教育の歴史は意外に浅く、1980年代初頭に始まる。しかし2000年以降に3つの宗教学院が新たに開校され、インドにおける有数のシーア派教育の拠点になりつつあるという。ムンバイのシーア派宗教学院の講師は、皆インド各地の宗教学院で数年間学んでから、イランに留学するケースが多い。留学先はほとんどの場合コムである。但し、基本的に標準課程を終えた時点でインドに帰国しており、修了過程を受講した講師は多くない。宗教学院における教育はおもにウルドゥー語で行われるが、ペルシア語が用いられる学院もある。ペルシア語が使われている学院は、ムスタファー大学からカリキュラムを借用しているという。以上のような調査結果から、イランの宗教教育の中心が場に移ったことと連動して、インドのシーア派も修学過程における人の移動のパターンが秩序づけられてきたとの見解を述べられた。報告者としては、ムンバイの宗教学院講師がいずれも旧アワド藩王国領かラダック地方出身の人物であり、デカンの旧ニザーム藩王国領出身の人物がいないことが印象的であった。
 榊氏の発表は、南アジアのイスラミケートな思想文献・インディックな思想文献それぞれを博捜し、シーア派ムスリムと南アジアの非ムスリム双方の視点が交差する場を探るものであった。特にインドの宗教的観念としての化身(アヴァターラ)をめぐる考え方を手がかりに考察を進めた。発表では様々な事例が取り上げられたが、報告者の印象としてはムスリムが主にアラビア語やペルシア語で、非ムスリムがサンスクリットで文献を書いていた時代には、双方の思想の交差はそれほど見られない。テクストに混淆的な要素が現れてくるのは、ブラジ・バーシャーなどインド近代諸語で文献が書かれたり、詩が詠まれたりするようになってからのことである。特に興味深いのはグジャラートのイスマーイール派の間で詠われてきたジナーンと呼ばれる宗教詩で、その中ではアリーは悪徳の時代(カリ・ユガ)に地上に降臨した神の化身とされ、見神(ダルシャン)の対象となる。また当代のイマームは第10の化身と位置づけられている。質疑応答ではテクストが作られた歴史的文脈をあわせて考察する必要性が指摘され、類似する事例として、イルハン朝時代のイランにおいてマフディーを文殊菩薩と同一と見做す見解があったことが紹介された。
 二宮氏の発表は、前近代南アジアにおけるスーフィーとシーア派の関係を概観したものであった。まず大きな枠組として、両者が対立的なケース、融和的なケースがまとめられた。前者は16世紀のビージャープル王国におけるイラン由来のシーア派知識人と在地出身のスンナ派スーフィーの政治的対立や、スンナ派の担い手たるスーフィーがシーア派を改宗させた事例などが当てはまる。また後者はサイイド崇敬とスーフィー崇敬のオーバーラップや、スーフィーによるシーア派ハディースの引用、シーア派的傾向を持つタリーカの活動などが当てはまる。次いで二宮氏は自身が長年にわたり取り組んでいる14世紀のスーフィー、ジャラールッディーン・ブハーリーの語録を取り上げ、その中でのシーア派の人々をめぐるブハーリーの言説を分析した。語録においては両聖地やアラビア半島のシーア派への言及が幾つか見られるのに対して、インド内のシーア派への言及が殆ど無いという指摘を興味深く聞いた。
 各報告の後に質疑応答があり、最後にも総合討論が行われたが、全体を通じて議論になったのはスンナ派との関係であったように思われる。例えば桜井氏がムガル朝時代のベンガルにシーア派が「支配者の宗教」として流入したと論じたのに対して、スンナ派の流入はそのような要素を持たなかったのかという指摘があった。また榊報告・二宮報告に関しては、イマームやサイイド崇敬といったシーア派的な要素を信仰において持つことと、シーアに帰属することをどう見分けた/るのか、といった点が問題になった。シーア派が宣教を行うにあたって、サイイド崇敬とシーア派の教義の違いを意図的にぼかすことも考えられるし、他方シーア派的な要素を信仰に持つ人々が、スンナ派の側から「シーア派に帰属している」と見做されることもある。そのような「内部」の認識・実践の多様性を「外部」の人々である我々がどのように認識できるのか、かつて濱田正美氏が触れていた問題をここでも実感することになった。
 なお、最近出版されたばかりのJournal of Royal Asiatic Society 24/3が南アジアのシーア派特集号であること、特集号の序文を草したフランシス・ロビンソンが同地のシーア派は未だほとんど研究されていないと述べていたことを桜井氏が研究会冒頭で指摘した。そのような現状にあって、INDAS-IAS連携事業において本研究会が企画されたことは非常に意義深いと言えよう。今後の研究の更なる発展を願う。

(文責:小倉智史)