第8回
セブのマリアッチ(楽団)
山口潔子(東南アジア地域研究専攻)

  フィリピンのセブ州に1年間住んでいた。日本で「フィリピン」という旅行パンフレットを探すのは困難だが、「アジア・リゾート」→「セブ」のものを探すのは簡単である。今だから白状するが、セブをフィールド地に選んだひとつの理由は、「国際空港があるリゾート地」だからであった。なんとも豊かで安全で便利そうではないか。写真で見る海辺のプールもいい。しょっちゅう泳いでリラックス、などとも思い描いていた。

  しかし、セブ市に到着してみて、違うと分かった。当然ながら、高級リゾートの客にならない限り、美しいプライベートビーチや清潔な大プールには入れないのである。さらに、日本のパンフレットでみる「セブ」は、「セブ本島」ではなく隣の「マクタン島」であり、セブ市を拠点にすると、日常的には特に行くことのない島なのだった。

  そのマクタン島の海岸線は、現在すべて私有地である。こう書くと、先進国の観光客がセブ人から海岸を取りあげたかのような被害感も感じなくはないのだが、実情はそれほど悪くない。「リゾートビーチ」といっても、ピン・ビーチ(高級リゾート1泊150ドル以上)からキリ・ビーチ(1家族1日30ペソ=60円)まで揃っているからだ。「罪滅ぼし」的に「近所の子供向け無料ビーチ」を(もちろん境界をはっきり定めて)併設している外国人向け高級リゾートもある。外資系ピン・ビーチでも、従業員のコネなどがあれば、割と多くの地元の人がタダで利用している。

  タダでは無い場合にしても、どのホテルも「外国人料金」と「比人料金」を設定しており、その格差がすばらしい。セブ本島の某高級リゾートを例にしよう。外国人が泊まろうとすると1人1泊250ドル以上だが、地元人は一部屋朝食付パックで100ドル以下だったりする。ちなみに、「一部屋」にベッドが二つしかなくても、最低6人は泊まるので、一人当たりの値段はとても安くなる。

  経済格差があるからしょうがないだろう、それでも現地の人には高いのだろう、と思いたいが、セブの中〜上流は「子供7人全員が欧米に私費留学」「家族全員・メイド付でスペインに1ヶ月旅行」などという、世界通貨でいっても金持ちの人が多いので、割に合わない気もする(ちなみに、開発NGO系の人が強調したいほど、こういう金持ちが「発展途上国における、名だたる頂点の数家族・ウルトラ級マイノリティ」ではなく、それなりの厚みを持った層として存在するということを認めねばならない時代が来ていると思う)。

  さて、セブでは、どんなランクのリゾート・レストランであろうと、「mariachiマリアッチ」(音楽集団)がいる。リゾートの宿泊客になるのは金銭的に苦しいが、中のカジュアル・レストランで食事をするのは割に敷居が低いので、何度か体験した。元祖メキシコのマリアッチは、「民族舞踊楽団」を意味し、メキシコ風でツバ広の帽子を被り、バイオリンやトランペットを含む数人〜10人くらいの楽団だという。セブのマリアッチは、大体3人組でアロハシャツを来ており、セブ特産のギターを抱えている。食事中のテーブルをまわり、客のリクエストに応じて歌を歌ってくれる。

  マリアッチは、いつからセブの風景に組み込まれたのか。そもそも、いつから「マクタン島」=「リゾート島」になったのだろうか。マクタン島がリゾート島と変容した最初のきっかけは、なんと、ベトナム戦争である。初老の大家さんの回顧談によれば、それまでマクタン島は他と変わらない漁村&湿地ゾーンであり、「今度の日曜日、海にでも行こか〜」と家族でお弁当を持ってピクニックに繰り出すところだった。当然、高級プライベートビーチなどないので、「このへんにしよ」と車をとめて、適当に遊ぶことが出来た。海は今よりさらに綺麗で、イルカやseahorseもたくさんいた(seahorseが厳密に何を指すのか私には分からないが、精力剤として中国人に高く売れた時期に、セブ人が捕獲しすぎたため、90年頃には絶滅したそうだ)。

  ベトナム戦争が始まると、アメリカ空軍がマクタン島に空港を建設した。マクタン島から戦地ベトナムへの直行便を飛ばすためである。若い米軍人がたくさんやって来た。すると、島内のインフラが整備されただけではなく、死の戦線に向かう兵士たちの「お楽しみの場」も整備された。飲食店、売春宿も含まれるが、「士官向けクラブハウス」「若い兵士向け海の家」なども海岸沿いに並ぶようになった。これらが、現在のセブにおけるビーチ・リゾートの発端になったのだという。ちなみに、現セブ国際空港(マクタン島)は、米軍空港の跡地に、日本政府のODAで建てられたものである。

  ベトナム戦争後、残されたインフラや施設を活用し、あらたな外国人の到来を待っていたところに訪れたのが、日本のバブル、売春ツアーとスキューバ・ブーム。次々と新しいリゾート施設が建ち始め、日本語デスクが設置された。2000年ごろからは、韓国人新婚旅行客や中国人・台湾人観光客がマクタンにお金を落としていく。東アジア人たちは、「南国リゾート」に羽を伸ばしにやって来るので、アロハシャツ姿で陽気な歌をうたってくれるマリアッチに喜ぶ。

  つまり、セブ・リゾートにマリアッチが出現し、「お約束」になったのは、結構最近のことなのだ。スペイン期末期から現代に至るまで、パーティやフィエスタ(祭り)となれば小さな楽団が呼ばれるが、「マリアッチ」とは呼ばれていない。「マリアッチ」はメキシコ製スペイン語で、今は米国に輸入され「英語」にもなっている。時代的にも、スペイン期フィリピンにメキシコから渡って来たのではなく、アメリカ経由でセブに定着した語であろう(話はそれるが、京都の四条木屋町にも「マリアッチ」というメキシカン・レストラン&ライブハウスなるものが出現しているらしい。これはどこを経由して来たのだろうか?)。

  とある中流リゾートの半屋外レストランのマリアッチの歌い手は、「元じゃぱゆきさん」と言われる女性であった。確かにすばらしく日本語の歌のレパートリーが広い。『恋人よ』をアクセント無く熱唱して、隣の壮年日本人男性テーブルを半泣きにさせていた。彼女は特例だったとしても、『スキヤキ(上をむいて歩こう)』『昴』『エリー・マイ・ラブ(いとしのエリー)』などの日本歌謡曲を歌えるマリアッチは多い。

  この女性シンガーを3ヵ月後別の高級リゾートのレストランでも見た。同じギタリスト二人を連れている。マクタン島のようにリゾート密集地区におけるマリアッチは、流浪型でありチップを主な収入とし、マリアッチ同士の競争もあるのかもしれない。一方、僻地(隔離型)リゾートのマリアッチは「リゾートの従業員」として契約していると知った。僻地リゾートの場合、客は最終会計まで現金を払わず、財布を持たずにレストランににやってくるので、チップは得られないからだ。

  ところで、セブで歌を歌っていたのは、マリアッチだけではない。町の人、ほぼ全員である。歌う場所はレストランやステージに限らない。役所・店・市場・学校・道路・家、どこにいても歌が聞こえてくる。スーパーでは、Pond’sかNIVEAで悩む女性客も、「Allアメリカン」比製コーンビーフ缶を並べる従業員も、レジ係も、BGMに合わせてかなりの音量で歌っていた。歩きながら、掃除しながら、物を売りながら、歌う。日本に帰国して大型スーパーや駅に行くと、その静けさに逆カルチャーショックを受けた程である。

  思えば、歌えといわれても歌わないとか、歌は苦手と言う人に出会ったことがない。歌の好きな人が溢れ、歌のうまい人も多い中で、マリアッチ等のシンガーになるのは、結構難しいだろうと気付く。加えて、セブは昔からスペイン(クラシック)ギターの産地であり、ギターを弾きつつ歌っている道端の老人なども多い。皆が歌好きな環境であるため、要求される基準値は高いようだ。

  例えば、あるマリアッチ・シンガー(僻地リゾートの契約型)に聞くと「給料が安い」とぼやきつつも、「自分も楽しいことをして仕事って呼べるんだから俺はラッキーさ」と言っていた。本当はバスケットボールの選手(日本でのお相撲さんか野球選手に値する花形のオトコ)になりたかったらしいが、足を怪我したので、まず教会のChoirで鍛えたのち、地元のオーディションを受けたそうだ。

  ベトナム戦争に伴うアメリカの軍人クラブに始まり、昨今では「ハワイアン」カクテルのグラスを手にした韓国人新婚カップルに「トロピカルな夢」を与える。外来者の要望に対応してきたセブのリゾート文化とも言えるが、マリアッチに関しては、歌が生活の一部である、という下地あってのことのことである。セブのマリアッチは、戦後のセブ史と、セブ人の音楽的資質の一端を説明していると言えよう。

京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科