共通テーマ:「ヒンドゥー」なるものをめぐって(3)

「Hindutva をめぐって」
徳永宗雄 (京都大学文学研究科)

1998年12月11日(金)


 徳永氏は、「ヒンドゥー至上主義」などと訳されるHindutvaの概念について、お話しくださった。徳永氏によると、Hindutvaは、ペルシア語起源のHindu(ヒンドゥー)とサンスクリット語の接尾辞であるtva(〜性、英語のnessに当たる)が複合してできた言葉である。そもそもHinduという言葉は、インダス川(サンスクリットでSindhu)流域に住む人々を指すのに用いられたペルシア語である。さらに中世後期になってインド大陸に入ってきたムスリムが、自らと宗教と異にする人口を指すのにHinduという呼称を用いたが、それは軽蔑的な意味合いを含んでいた。非ムスリム・非クリスチャンのインド人が自らをHinduと呼ぶようになったのは、比較的新しいことである。Hindutvaという複合語が使われるようになったのも、当然近代に入ってからのことであろう。ちなみにドラヴィダ人という言葉が使用されるようになったのも、比較的最近であり、1883年にサンガム文学の写本(紀元後1-3世紀)が発見され、1913年にR.ColdwellによってA Comparative Grammer of the Dravidian Languageが書かれてから人口に膾炙したようだ。なお古代においては、いわゆるヒンドゥー教徒が「われわれ」を指す言葉としては、「ナースティカ」(無神論者)である仏教徒・ジャイナ教徒に対する形で「アースティカ」(有神論者)という語を用いていた。

 さらに徳永氏は、現代におけるHindutvaの語の使用法を考える資料として、インターネットにおいてこの語を検索して、豊富な記事を収集された。そこにはHinduという言葉をめぐってのさまざまな解釈がみられたが、目に付いたのは、Hinduという言葉は、宗教上の帰属ではなくインド人一般を指す言葉であり、ムスリムやクリスチャンも含むといういう言辞であった。Hindutvaという言葉の性質によるのかもしれないが、ヒンドゥー至上主義政党といわれるインド人民党(BJP)を擁護する立場での解釈が多かったような気がする。徳永氏もご指摘されたように、これからインターネット上の記事は学術上にもさまざまに利用可能なものであろうが、資料批判をいかになすべきか問われるだろう。

 現代政治において話題となることの多いHindutvaについて、徳永氏はご専門のサンスクリット学の立場からのみならず、インターネットを通じた情報収集によって、非常に幅広く示唆深いお話しをくださった。Hindutvaの問題は、まさにインターディシプリナリーなアプローチを要求するものであり、これからもさまざまな立場や方法からの解析が必要であろう。      (田辺明生)


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