第7回
タンザニアの農村生活を垣間見て
近藤 史 (アフリカ地域研究専攻)

 私は2000年2月からタンザニアの農村へ一年間のフィールドワークに出かけた。アフリカへ行くのは初めてだった。出発前に村の様子を自分なりに想像していたが、現実は予想と大違いだった。工業製品の普及をはじめ、まだ色濃く残っているだろうとおもっていた伝統的な暮らしのイメージから村の生活がはなれてきていることに驚いた。

 村ではどこの家でも、食器や調理道具はアルミ、プラスチック、ほうろう製のものがほとんどだったし、水浴びや洗濯につかう固形せっけんを備えていた。私が訪ねると必ず、とっておきのガラスや陶器の食器を出してきて、砂糖たっぷりのチャイや、ウガリをごちそうしてくれた。(ホスピタリティー溢れる彼らのもてなしを断れずに、…キロも太った私としては、ちょっと苦笑いをともなう思い出ですが。)

 そして彼らは、意外なことにけっこうまじめなキリスト教徒(一部、イスラム教徒)だった。日曜日は教会で3時間におよぶ礼拝。信心深くない私は礼拝が嫌いだったけれど、仲良しのおばちゃんたちにたしなめられて、仕方がないのでひと月に1、2回くらいは礼拝に行くことにしていた。ところがある日、礼拝の途中で眠ってしまい隣に座っていたおばちゃんに怒られた。反省した私は、彼らに満足してもらいつつ自分は休息するために、礼拝の最後の数十分だけ教会へ行くという方法をあみだした。礼拝の終盤、人々が最前列へ行って御寄進する場面がある。このときにいるだけで、色違いは目立つので、誰もが「今日は史が礼拝に来ている」とわかってくれるのだ。それ以来、朝は喫茶店でミルク入りのチャイとチャパティ−を食べてのんびりし、礼拝中は目をさまし、礼拝が終われば教会のそばの市で仲良しの人たちとおしゃべりや買い物を楽しみ、文句なしの日曜日を送れるようになった。

《果物を売る女と客の老人》

 また、水汲みなど、伝統的な生活場面に新しいものが入り込んでいる例もあった。タンザニア農村部では水道が普及していないので、水の確保は重要な問題だ。水汲みといえば、今も素焼きの水ガメが使われているのだろうと思っていた。ところが、カメで水汲みをする光景は一度もみられなかった。みな、プラスチック製の20リットルバケツを使っていたのだ。このバケツ、いったいどういう経緯でこんなにたくさんあるのかと思っていたら、もとは商店で量り売りされている料理用油が入っていた容器で、それを洗って再利用していた。再利用といってもタダではなく、そこそこ高価だが、軽いし安定がよいので便利だった。私でも頭の上にのせて水汲みができたのは、このバケツのおかげだったと思っている。

《バオバブの木を横目にみながら、水汲み》

 汲んできた水もまた、カメではなくドラム缶に溜めておく。こちらは1970年代後半、村のまん中を通る舗装道路をつくる工事の際に、アスファルトをつめて村まで運ばれてきた。空になって打ち捨てられたものを、村人が持ち帰ったらしい。素焼きのカメの水はいつでも冷たいと聞いていたので、なんとも味気なくてがっかりした。しかし、大量の水を貯えられるので、雨季のはじめやおわりの頃、どっと降った雨を溜め込んでおけば晴れた日がちょっと続いても水汲みに行かなくてすんだ。

 しかし、村の生活が私の想像とはすっかり違っていたかというと、そうでもない。伝統的なところも残っていた。台所は石を3つ配置して薪を燃やすタイプが主流だった。夕刻近くになるといつも、頭の上に薪をのせた畑帰りの女性に出会った。すっとのびた背中が腰の辺りでキューッと弓なりになっておしりがつんとでた、独特の姿勢で力強く歩く彼女達には惚れ惚れする。この姿はきっと昔から変わっていないのだろう、村の男性がもつ女性の美しさに関する基準も、この姿勢のなかにありそうだった。

《夕暮れに、薪はこび》

 また、トウモロコシとシコクビエからつくる地酒も彼らの生活に欠かせなかった。大人の朝ごはんは地酒、昼も夜も人が集まって話をするところには地酒、共同労働や儀礼のときには大量の振る舞い酒。私が住んでいた村では9月〜12月の農繁期を中心に農作業の共同労働が盛んで、平均すると1家族が1年間に3回ていど企画していたが、それは地酒なしにははじまらなかった。

 ある共同労働で、60リットルの地酒を持って畑に行き、畑から帰って主催者の家に残っていた10リットルを飲み干し、まだ足りず酒場へ10リットルの追加を買いにいったのには、あいた口がふさがらなかった。酒が美味しいとみなよく働くけれど、そのぶん量も飲むので、あっという間に酔っぱらってしまう。こんなことで良いのかと問いただしてみると、「お酒は私達のガソリンだから飲んだほうがよく働けるんだ」と言う。そんな理屈があるかしらと思いながらも、酒がまずいと仕事が遅いし、それで予定していた仕事が全部終わらないこともあったから、あながち否定できないかもしれないところが恐ろしい。

《The horn blower calling people from the villages
into the magic dance.》

 村の生活の端々(要所?)に伝統的な要素が根強くあり、彼ら自身、そこに楽しさなど価値観の重心をおいているようにも思えた。彼らの生活や考え方は伝統的とも近代的ともいいがたく、私から見れば不思議で魅力的なものだ。彼らは私に、村に援助プロジェクトを持ってきてくれ、きちんとした水道が欲しい、肥料やトラクターを買ってくれ、洋服や電化製品が欲しいなど、日本人が送っているような生活を求めているかのような要望を口にした。しかし、みんな今のままでとても楽しそうに生活しており、しょっちゅう素敵な笑顔をみせてくれた。自分たちの生活を悲観も卑下もするわけではない。そんなところを考えると、言葉にでてくることと彼らが本当に願っていることはなにか違うような気もする。

 彼らが、なにを所有し、なんの労働に頭と体を使い、どのような人間関係や時間配分で生活を送ることを、最も欲しているのか。私にはまだわからない。もしかしたら彼ら自身もわかっていないのかもしれない。ただ私は、彼らが先進国の姿に近付いていくことだけを最良の到達点と鵜呑みにして目指してしまうのではなく、彼らなりの発展のみちをひらいていけたらよいのになあと思う。そして、伝統と近代が入り交じった今の彼らの生活を、私が居心地よく、面白いと思っていることを、彼らにきちんと伝えられるようになりたいと思う。

* 本文中の絵は、タンザニアの街々を歩いて土産物屋や文房具屋のすみでみつけた、カードや絵葉書から拝借しています。

京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科