真理の言葉
―神の選んだ言語・アラビア語―


【いいお天気】
 「今日はいいお天気ねえ」下宿のおばさんはそう言ってほほえんだ。ところはエジプトの首都カイロ。留学してしばらくたったある朝のことだった。えっ? 思わず私は窓の外を見る。もちろん起きぬけに見たとおり、外は曇っていた。
 そのことばの意味が分かるにはしばらくの時間が必要だった。エジプトは日本より日射しの強い国である。朝から燦々と太陽が輝いていれば、それは今日もうんざりするような暑い一日だということを意味する。その点、今日のように曇り空であれば、涼しい一日になりそうだ。だから、「いいお天気」なのである。
 同様に、アパートを探すときには、南東角など、まちがっても選んではならない。暑すぎるからである。こういった異国での体験は、驚きとともに、これまでの自分の「常識」の相対性を、否応なく私に教えてくれた。

【イン・シャー・アッラー】
 イスラムでは、真理のことをハックという。ハックは、アッラーの別名でもある。すなわち、真理は絶対であり、それは唯一である、そしてその真理がアッラーそのものなのである。エジプト人と明日どこかで待ち合わせようという約束をすると、彼らはイン・シャー・アッラーと言う。「もしアッラーが望みたもうなら」の意である。これはたいへんに謙虚な表現なのだ。つまり、彼は確かに約束した。だから誠心誠意それを果たそうと思う。しかしどう頑張ってみても人間は絶対ではない。もしかしたらその待ち合わせ場所が火事で燃えてしまうかもしれないし、行く前に自分が交通事故にあってしまうかもしれない。そういうことを考えれば、自分は「絶対に行く」とはけっして言えない。言えるのはただ、われわれのように相対的ではない、絶対の神アッラーがもしそうお望みになるなら(イン・シャー・アッラー)行くつもりです、ということだけだ。この表現に似たものを日本文化のなかに求めるなら、「人事を尽くして天命を待つ」がふさわしいだろう。

【神に選ばれたアラビア語】
 その絶対の神アッラーが教えをコーランとして伝えるために、とくに選んだ言語がアラビア語であった。アラビア語は神に選ばれた言語なのである。世界宗教イスラムは、選民思想をもたない。たとえば日本人である私だって、イスラムに入信しようと思えば、今すぐにでも入信できる。入信の儀式は簡単だ。「アッラー以外に神はないと証言します。ムハンマド(マホメット)はアッラーの使徒であると証言します」と証人たちの前で宣言すればそれでよい。しかし、この信仰告白の証言は、必ずアラビア語で行わなければならない。また、イスラム教徒が一日五回の礼拝の際唱えることばはほぼ決まっていて、すべてアラビア語である。つまり、イスラムは民族を選ばなかったかわり、言語を選んだのだと言える。すべての民族に開かれた世界宗教ゆえに民族を選ばなかったイスラムは、その統一性を維持するためにただ一つの言語を選んだのだと解釈することも可能であろう。

【イスラム世界の諸言語】
 現在イスラム教徒は八億人とも十億人とも言われる。われわれはイスラムというと中東や砂漠と結びつけて考えがちだが、いま一国単位で最もイスラム教徒人口の多いのは東南アジアのインドネシアであり、彼らの日常語は当然のことながらインドネシア語である。以下、中国、インド、バングラデシュ、パキスタンとつづくのだが、そのどこも、アラビア語を日常語とはしていない。一部の宗教エリートを除けば、人々は礼拝のあとの個人的な祈りを、自分の母語で捧げている。アラビア語がイスラム世界の統一性の象徴だとすれば、イスラム諸地域の各言語はイスラムの多様性を示しているといえるのかもしれない。トルコ語、ペルシア語、スワヒリ語、ウルドゥー語などその数はかぞえきれない。

【アラビア語を話すユーゴスラビア人】
 それでも彼らは、礼拝のときには必ずアラビア語を使う。小さいときからコーランを(勿論アラビア語で)暗誦している人々も多い。だから彼らは驚くほどアラビア語が上手である。まだ留学したての頃、カイロで毎年開かれるインターナショナル・ブックフェアーのお手伝いをしたことがあった。このとき友人になったユーゴスラビア人のことを今思い出す。アラビア語の上手なユーゴスラビア人のなかにあって、彼はそれほどでもなく、まだアラビア語がろくにできなかった私としては、いささか気安くつきあうことができた。当時は、東欧の人なのにイスラムの勉強をしてるなんて変わってるな、と自分のことは棚にあげて思ったものだ。今思い起こせば、彼はボスニア=ヘルツェゴヴィナのムスリム(イスラム教徒であることを表すと同時に、これは彼らの民族的アイデンティティでもある)だったのだ。彼のアラビア語は上達しただろうか。いや、そんな余裕があるのだろうか。そもそも彼は元気なのだろうか。彼の少したどたどしいアラビア語を思い出しながら、祈るような思いで旧ユーゴスラビア内戦のニュースを見るのである。

季刊「サティア」 東洋大学井上円了記念学術センター 第16号(1994年)より転載

 
はじめに戻る