ASAFAS 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
インターネット連続講座
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  第十一回 「東南アジアという世界」
東南アジア地域研究専攻 坪内良博(地域進化論講座)     tsubouchi@asafas.kyoto-u.ac.jp
 
 

2.類似のなかの異質
(1)都市の構造 -多民族的構造-


 少なくとも15年ほど前には、バンコクに華人が多かった、王とその取り巻きだけがタイ人だったという話をすると、タイ人研究者は多少なりとも不快の念を示したり、反発したりしたものである。今日では、この事実はむしろ当然のこととして受け入れられ、そのうえでタイ国民としてのアイデンティティが確認されているように見える。
 同様の多民族的な状況は、シンガポールにも見いだされる。シンガポールはバンコクよりも少し新しく1819年にラッフルズによって、マレー半島に隣接するほとんど無人の島に建設されてから、植民都市としての著しい発達を遂げた。ここでも中国系の住民が多数を占めるようになるのだが、1820年代あるいは30年代に、住民は次のように分類されている。すなわち、ヨーロッパ人、アルメニア人、ユダヤ人、アラブ人、マレー人、華人(中国人)、コロマンデルおよびマラバル沿岸民、ベンガルおよびその他のヒンドスタン住民、ジャワ人、ブギス人、バリ人、ペルシャ人、シャム人、ボヤン人、コーチシナ人、ポルトガル人等である。  
 東南アジアの他の都市、ジャカルタ、クアラルンプール、マニラなど今日大都市として知られる都市はほとんどすべて、多かれ少なかれ同様の構造を示している。このことは、東南アジアの大都市の歴史は新しく、少なくとも200年前には、大都市はこの地域にまっ たくなかったことと関係している。人口20万人を越える都市は、東南アジア全域において、19世紀半ばまで現われることがなかった。先に示した19世紀はじめのバンコクの人口40万人というのはこの意味でも間違いで、この都市の人口は19世紀半ばでも16万人程度とみなされるのである。
 民族的な多様性は、都市だけに見られるのではない。たとえば、マレーシアにおいては、20世紀になって急激に拡大していったゴム園地域に、大量のタミル人が南インドから流れこむのである。このようにして形成された、多民族国家、ないし複合社会という特性は、単一民族への志向が強かった日本に比べると、対照的な性格として捉えられる。そこには、文化的な共存もあったし、経済的な葛藤も見られたのである。

この地域には多数の小王国が林立していた。

残された宮殿の一つ。

Contents

1、アジアの中の東南アジア
  多様な側面

  異質の要素

2、類似のなかの異質
2-1、都市の構造

   多民族的構造
2-2、移動性
   出稼ぎ
   焼畑

3、小人口世界

4、東南アジア型社会
   農民と移動
   異質への親和性

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