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第8回(通算第33回)
「ダルマの現代的意義を問う」
田辺明生:連環地域論講座

Contents

1.はじめに

2.世俗主義の地域性

3.近代世界における認識論と支配構造

4.ポスト冷戦期における存在論の再浮上:ポスト啓蒙主義時代へ

5.自由の条件としての絶対真理の領域

6.ダルマとリベラリズム

7.ヒンドゥー教における自由

8.ダルマにおける供犠的行為

9.ダルマと現代世界

自由の条件としての絶対真理の領域


 さて存在論の立場から見て、もっとも重要な問いのひとつは、現世を越えた絶対普遍とこの世の関係はいかなるものであるかというものである。現代の自由至上主義(リバタリアン)の立場からは、絶対普遍の存在について語ること自体が許されないタブーであるかのように扱われることがままありがちだが、私の考えでは、リベラリズムの最良の伝統の中にも、絶対普遍の「真理」の存在が前提されている。その真理に対する敬意と畏怖こそが、正義と法の基盤となり、自らの相対性の認識と他者の尊重を生むのである。パラドクシカルに聞こえるかもしれないが、絶対真理の領域を認めることは、公共領域における他者の抑圧からの自由の条件として必要なのである。(そして後に述べるように、真理の存在は、個我と共同体の欲望からの自由のためにも不可欠である。)
 ただしここで注意しておかねばならないことは、その「真理」が絶対普遍のものであるなら、定義上、それは完全な形では言語化できないものであるということである。よって特定の言語や象徴を保有することは、真理をわがものにしていることを意味しない。したがってまた真理(科学や歴史的法則や宗教)の名において、個人や団体がある特定のドグマを唯一無謬のものとして主張することもできないはずだ。相対世界を超えた絶対普遍の真理の存在を真摯に認めるとき、人は謙虚にならざるを得ないのである。
 他方で「真理など存在しない、全ては相対的である」という人もあるだろう。ポストモダニズムの立場もこうした見解を支持するものと思われる。我々の言語化できることが、全て相対的なレベルにとどまるというのはそのとおりである。しかし普遍的真理の存在を最初から否定してしまうような相対主義は、他者との対話の基盤さえも否定し、「迷惑さえかけなければなんでもあり」といったひとりよがりな傲慢さを帰結してしまうことは指摘しておきたい。絶対的な相対主義は、絶対主義と同じく、自らの可謬性を認めない点で、倨傲に通ずるのである。


オリッサ州コナーラクのスーリヤ寺院の一部。
車輪は輪廻転生の世界を象徴する。