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2000年度目次(東南アジア地域研究専攻)

  第十八回 「経済発展の要因としての制度」
 
 

Contents

1.制度が経済パフォーマンスを決める

2.制度とはなにか

3.制度の経済パフォーマンスへの影響ルート

4.経済的自由とルールの執行能力

5.なにが制度を決めるのか:
 タイとフィリピンにおける自由度の比較

6.なにが制度を決めるのか:
 タイとフィリピンにおけるルール執行能力の比較

7.私の研究がめざすもの

  

5.なにが制度を決めるのか:
  タイとフィリピンにおける自由度の比較

 1950年代の初め、フィリピンは東南アジアの先進国であったが、その後の経済パフォーマンスは悪く、1980年代末には「アジアの病人」と言われるまでに経済的地位は低下した。1950年代に比較的所得水準が高かったのは、アメリカ植民地時代の遺産があったからだ。それに対し、タイは1950年代にはフィリピンの半分位の所得しかなかったが、それ以降、順調に成長し、1990年頃にはフィリピンの2倍の所得を享受するようになっていた。この経済パフォーマンスの違いは、タイの経済ルールがより自由で、またタイ政府のルール執行能力の方が高かったということがその理由である。一方フィリピンの方は、植民地時代の自由なルールを規制の多いルールで置き換え、またルール執行能力も低下させた。

 それではなぜ、タイのルールはより自由な経済行動を許し、フィリピンのルールは自由を束縛するものになったのであろうか。前者が軍事政権で、後者が民主主義体制であった(少なくとも、その時期が長かった)ということが関係しているかもしれないが、より大きな理由は、タイの政権担当者が自由をより尊重したことである。それも、どの指導者もそうであったというのではなく、1957年クーデターを起こし、政治権力を掌握したサリット将軍の影響が大きかったと思われる。彼の自由経済政策の下で経済は順調に成長し始めたので、こんどは逆に経済的な成功が自由経済政策を支えることになって、それが定着したと言える。

 もう一つは、過去の経緯である。これは新制度派経済学が制度変化の経路依存と呼ぶものである。過去に制度がどうであったかが、ルールづくりに大きな影響を与える。これが最も大きくでるのはコモンローの伝統が強い国であるが、そこではルールを変えると言っても、判例を通じての変化であり、先例の修正はよほどのことがなければ行われないので、制度の変化は限界的にしか進まない。しかし、制定法の国では、一つの法律が大きな影響を制度に与える。だが、そこでも人の考え方は過去に制約される可能性が大きい。タイの場合、絶対王制を1932年に倒した革命団の人たちは、新しい経済制度の模索をしたが、それはあまりうまくいかなかった。タイの政治の安定には国王の存在が必要であると考えたサリットは、国王を政治の中央舞台に引き戻すが、それに対応する経済体制は絶対王制時代の比較的自由な経済だと考えたのではなかろうか。少なくとも、そういう伝統があり、その時代に経済が比較的うまくいっていたということは、新経済体制をつくる上でなんらかの影響を与えたと思われる。

 第三に、世界のイデオロギーの潮流がある。フィリピンはタイ以上にこの影響を受けた。これはアメリカ時代からの民主主義の伝統と無関係ではないが、自己の制度的伝統の弱さがその大きな理由であろう。独立後の指導者は、フィリピンが後進国であることの理由をアメリカの植民地支配に求め、新しい制度の樹立を模索した。彼らは世界で支配的になっていた、政府による市場経済の統御を唱える社会主義的イデオロギーに大きな影響を受けて、新しい経済ルールを作ったと理解される。そういう新制度で経済発展すると思ってやってみたが、1970年代ころになると都合の悪いことが分かり、より自由な制度への模索が始まるが、過去の政府介入は既得利権者を作りだし、それが障害になって1990年代の初めに成立するラモス政権になるまで、介入型ルールの清算を行えなかった。

 タイの場合、社会主義的イデオロギーの潮流の影響は受けたが、フィリピンほど大きな影響は受けなかった。これは、過去において自力で独立を維持し国力をつけてきた自信と経験が、従来の制度を大幅に変える社会主義的イデオロギーの導入への歯止めになっただめだと、解釈されよう。

マレーシア、クアラルンプールの中華街