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第3回(通算第28回)
「パキスタンにおけるNGO活動―宗教と民族がもつ活力を探る―」
子島進:連環地域論講座

Contents

1.カラーコラムの村から

2.宗教センターと社会サービス

3.外からの力をうまく利用する

4.カラーチー

5.イーディー福祉基金

6.慈善事業家=イスラーム聖者?

7.オーランギー・パイロット・プロジェクト

8.まとめ

4カラーチー

 ここで、パキスタンの北端から南端へと目を転じよう。アラビア海に面するカラーチーは、パキスタン最大の商業都市であり、人口は1000万を超える。この町では、1990年代の一時期、路上における銃の乱射や爆破事件が頻発し、最悪の治安状況を呈した。そこには、宗派主義や民族問題で分断された、今日のパキスタンの縮図を見ることができる。
 イギリス植民地下のインド・ムスリムは、ヒンドゥーとムスリムが異なる民族であることを主張し、「イスラーム国家の樹立」を求めた。その結果、1947年に誕生したのがパキスタンである。住民の大多数がムスリムを占めるこの新生国家においては、イスラームの絆がさまざまな民族集団を結びつけることが期待された。やがてそれは「パキスタン国民」の創造へと結実するはずだった。
 独立から半世紀を経た現在、パキスタンという国の内部には、多くの裂け目が走っている。それは富める者と貧しい者の間の経済的格差、あるいは強権的な中央政府に対する地方の反目という政治経済的な問題から、欧米で学位を取得することも珍しくない都市のエリートと辺境州の部族民の間の価値観の齟齬、さらに教育や就労の際に生じているジェンダー間のギャップなど、多岐におよんでいる。なかでも最大の懸案が、多民族が共住する大都市カラーチーで繰り返される民族や宗派間の衝突である。
 パキスタンはこれまで何度となく生じてきた危機を、西側からの多額の援助、出稼ぎ労働者からの送金、緑の革命による食糧増産などでなんとか乗り切ってきた。しかし1980年代以降、政治の不安定性や腐敗からくる経済の不振と急激な人口増加が、社会全体に暗い影を差している。現状は、建国の父ジンナーの希望とは、大きく異なるものとなってしまった。たとえば、水不足に悩むこの町では、金持ちは民間業者がタンク車で供給する水でシャワーを浴び、バザールで買う高価なミネラル・ウォーターを愛飲する。市場が公共事業を補完しているといえば聞こえはいいが、お金のない人々にとっては、実際にはなんの足しにもなっていない。では、社会的弱者は切り捨てられているだけなのだろうか。いささかなりとも有効なセーフティー・ネットを社会に対して提示し、実行する能力をもつアクターは存在しないのだろうか。アーガー・ハーンは、北辺の山地における例外的事例なのだろうか。


ムハンマド・アリー・ジンナーの廟。

パキスタン最大の都市で、
建国当初は首都でもあった
カラーチーの中心部にある。